2015年5月21日木曜日

カルチャーショックレスな時代


第1話 『坂の向こう』


僕が初めてカルチャーショックなるものを経験したのは、

5歳くらいの頃。

今の私の娘と同じ年だ。

場所は地元にあった米軍基地。
(実際の当時のゲート 昭和40年頃)

この米軍基地は昭和20年から昭和53年まで

約30余年間ここのあり続けた。

覚えているのは、

母親から「坂の向うには基地があるから、あの坂の向こうへはいっちゃだめよ。」

と言われ続け、”何故いっちゃだめ” なのかは言われた記憶がない。

おそらく”なんで?” と聞いたのだろうけど、

聞いたところで子供ごころに理解できるわけがない。

ただ、そう言われれば、好奇心の塊だった子供ごころに行きたくなるわけで。


〜中略〜


当時、僕は父がはいっていた某奉仕団体Lクラブ主催の

毎年恒例のクリスマス家族会に毎年家族で出かけるのを楽しみにしていた。

会場は米軍基地に隣接していたステーキハウス、

地元では名の知れた高級レストランで

なかなか庶民が日常出入りできる場所というイメージはなかった。

実際、庶民はめったに出入りできなかった。

当時は米軍将校のクラブとしての機能も

あったらしい。

そのクリスマス家族会にはたくさんのLクラブ会員の家族たちが集っていた。

当然、子供達もたくさんいた。

レストランの入り口には大きなクリスマスツリーしかも生木のツリーが飾ってあり、
(イメージ)
子供ごころにクリスマスには大きなツリーを飾るという習慣は

ここで印象付けられたんだと今振り返ると思う。

このレストランのすぐ隣が広い公園となっている。

その公園の横を通る道を隔てて基地がる。

そこの公園は当時ハイドパークと言われており、

駐留する米軍将校達とその家族の居住区となっていた。

今でも鮮明に覚えているのは、

パーク内に木造の大きな白い家が何棟も建っていて、

そこには明らかに僕とは違う人たちが住んでいたということ。

何故そうなのか...?は、

当時の僕には知る由もなく。

ただそこに行けば、肌の色が違う、わけの判らない言葉を発する人たちが

とてつもなく広い敷地のなかの大きな家に住んでいるということだけは確かだった。

パーティー会場を出て外でパーティーで一緒だった友達と遊んでいると

隣の公園で年は同じ頃の僕らと見た目が違う子供達が遊んでいるのが目に入り、
(イメージ)

好奇心旺盛だった僕は気になって仕方がない。

遊んでいる内容も違うし、もっているおもちゃがこれまた見たことが

ないような面白そうなおもちゃだった。

子供ごころにショックだった。

何故、あの子達は肌の色が違い、話している言葉も違い、

あんな大きな家に住み、広い芝生でのびのびと遊んでいるのだろう!?

子供ごころにそんな疑問がよぎった。

あのおもちゃ貸して欲しいな...

そんな軽い気持ちで、

一緒にあそんでいたクリスマス会で一緒だった日本の子供達から離れ

一人そこの芝生に足を踏み入れ、

遊んでいる肌の 色が違う子供達の輪の中へ割ってはいっていった。

どうやっていったかは記憶が定かではないので、書けないけど、

覚えているイメージは白人の男の子に芝生の上で抑えつけられ、

何かわけのわからない言葉でわーわー何かを言われている

映像が脳の中で遠い昔の記憶として

残っているだけだ。

おもちゃを借りようとしたのか、言葉が通じず、実力行使で奪った結果、

力づくで押さえつけられてしまい、わーわー文句を言われていたのか....

何を言われたいたのかなぞ、思い出せるわけもなく、その場面は閉じる。

これが生まれて初めて外国人とのエンカウント(遭遇)だった。

いわば、"Final Encounter With Third Kind"だった。
(邦名:映画「未知との遭遇」)

つまり、僕が生まれて初めて出会った外国籍の人は

米国人でしかも子供、

決してフレンドリーな出会いではなかったようだ。

もちろん、のちに一緒に遊んだ記憶もある。

でもその内容は....

戦争ごっこ。

日米戦争ごっこだ。

かなり本気でやっていたことを覚えている。

でも...

その当時、僕らは何故一緒に遊べる環境にあったのか知らなかった。

言葉が通じないのに一緒に遊べる。

子供はすごい。

当時はアメリカ人が外国文化に触れる背景には必ず

戦争があった。

この頃、敗戦国の子供というアイデンティティーを僕は知らなかった。

ただ単に肌の色、言葉、問わず、そこに子供が集まればどうにか遊ぶ。

それがごく自然なことだった。

それから基地が変換される1953年(昭和53年)迄

僕はよく坂の向こうへ出かけて行った。

基地が日本政府に返還された時、

僕は10歳になっていた。

終戦を迎えた年、1945年(昭和20年)

私の父は10歳の少年だった。

その間33年、ここにはアメリカがあった。

そして、戦後70年たった今もなお日本には米軍基地がある。

もうすっかり、かつて熾烈な戦争をしていたなんてことは歴史上のこととして

近現代史の1ページになってしまった。