2015年5月26日火曜日

カルチャーショックレスな時代


第2話

『HUG』

高校3年の夏・・・

僕は毎日部活動に明け暮れていた。

当時男子バレー部に入っていた僕は、

毎日が体育館と自宅の往復で

その合間に授業がある・・・そんな

学校生活を送っていた。

そんな夏のある日それは起きた。

学校の体育館の前で

監督と話を終えキャプテンだった

僕は練習メニューを握りしめ

体育教官室から一礼をし出てくると

見覚えのある顔の女の子が

こっちを見てニコリと

微笑んだかと思った瞬間・・・

僕に走りよって来てぎゅっと

汗臭い 僕を抱きしめた・・・

ギュ〜!

ギョッ! 当時まだ17歳の僕は

女性にしかも

かなり積極的に

抱きしめられた経験などなく

何が起こったのか訳もわからず、

ただ今起っていることを

気持ちよりも先に体が受けと止め、

棒のように突っ立ったまま、

抱きしめてきた彼女の顔をまじまじと

見つめると・・・

(もしかして・・・)

そこには満面の笑顔で僕を見つめる

彼女がいた。

と次の瞬間、

「グットゥースィーユーアゲイン!」

と叫びながら

僕の頬に彼女の頬を

くっつけてきたので・・・

(なんだ、俺に気があったんだ…)

しかし、それは

最近では日本人もよくする「HUG」で

頬と頬をつける行為も

家族や親しい友人などへの
挨拶的スキンシップだった。

とんだ勘違いだった・・・

高校性で部活動しかしていなかった僕には

「HUG」は

とてつもない

カルチャーショックだった。


〜1年前〜


高校1年の時

彼女とは

クラスが一緒で

進級を待たずに

お父さんの仕事の都合で

カナダへ引っ越してしまった。

ちょっとボーイッシュで背が高く

姿勢がいつもよく、落ち着いていて、

時にはっきりものを言う、

はっきりした言動で、

弓道部にいた凛とした彼女に

淡い憧れに近い思いを寄せていた

僕は彼女が海外、

しかも

遥か遠くの

カナダへ引っ越すと聞いて

なんとも言い難い胸の内と

(恋心というか憧れに近い…)

未知の世界へいってしまう

彼女に対して羨ましいというか…

嫉妬心の入り混じった気持ちがあったのかな。

一体このカナダでの一年間で

彼女に何があったのだろう・・・

さらに僕の外国への好奇心は強まった。

彼女はその後高校卒業後

帰国子女が多く通う某有名私立大学へ
進学していった。

それ以来彼女とは会っていない・・・






2015年5月21日木曜日

カルチャーショックレスな時代


第1話 『坂の向こう』


僕が初めてカルチャーショックなるものを経験したのは、

5歳くらいの頃。

今の私の娘と同じ年だ。

場所は地元にあった米軍基地。
(実際の当時のゲート 昭和40年頃)

この米軍基地は昭和20年から昭和53年まで

約30余年間ここのあり続けた。

覚えているのは、

母親から「坂の向うには基地があるから、あの坂の向こうへはいっちゃだめよ。」

と言われ続け、”何故いっちゃだめ” なのかは言われた記憶がない。

おそらく”なんで?” と聞いたのだろうけど、

聞いたところで子供ごころに理解できるわけがない。

ただ、そう言われれば、好奇心の塊だった子供ごころに行きたくなるわけで。


〜中略〜


当時、僕は父がはいっていた某奉仕団体Lクラブ主催の

毎年恒例のクリスマス家族会に毎年家族で出かけるのを楽しみにしていた。

会場は米軍基地に隣接していたステーキハウス、

地元では名の知れた高級レストランで

なかなか庶民が日常出入りできる場所というイメージはなかった。

実際、庶民はめったに出入りできなかった。

当時は米軍将校のクラブとしての機能も

あったらしい。

そのクリスマス家族会にはたくさんのLクラブ会員の家族たちが集っていた。

当然、子供達もたくさんいた。

レストランの入り口には大きなクリスマスツリーしかも生木のツリーが飾ってあり、
(イメージ)
子供ごころにクリスマスには大きなツリーを飾るという習慣は

ここで印象付けられたんだと今振り返ると思う。

このレストランのすぐ隣が広い公園となっている。

その公園の横を通る道を隔てて基地がる。

そこの公園は当時ハイドパークと言われており、

駐留する米軍将校達とその家族の居住区となっていた。

今でも鮮明に覚えているのは、

パーク内に木造の大きな白い家が何棟も建っていて、

そこには明らかに僕とは違う人たちが住んでいたということ。

何故そうなのか...?は、

当時の僕には知る由もなく。

ただそこに行けば、肌の色が違う、わけの判らない言葉を発する人たちが

とてつもなく広い敷地のなかの大きな家に住んでいるということだけは確かだった。

パーティー会場を出て外でパーティーで一緒だった友達と遊んでいると

隣の公園で年は同じ頃の僕らと見た目が違う子供達が遊んでいるのが目に入り、
(イメージ)

好奇心旺盛だった僕は気になって仕方がない。

遊んでいる内容も違うし、もっているおもちゃがこれまた見たことが

ないような面白そうなおもちゃだった。

子供ごころにショックだった。

何故、あの子達は肌の色が違い、話している言葉も違い、

あんな大きな家に住み、広い芝生でのびのびと遊んでいるのだろう!?

子供ごころにそんな疑問がよぎった。

あのおもちゃ貸して欲しいな...

そんな軽い気持ちで、

一緒にあそんでいたクリスマス会で一緒だった日本の子供達から離れ

一人そこの芝生に足を踏み入れ、

遊んでいる肌の 色が違う子供達の輪の中へ割ってはいっていった。

どうやっていったかは記憶が定かではないので、書けないけど、

覚えているイメージは白人の男の子に芝生の上で抑えつけられ、

何かわけのわからない言葉でわーわー何かを言われている

映像が脳の中で遠い昔の記憶として

残っているだけだ。

おもちゃを借りようとしたのか、言葉が通じず、実力行使で奪った結果、

力づくで押さえつけられてしまい、わーわー文句を言われていたのか....

何を言われたいたのかなぞ、思い出せるわけもなく、その場面は閉じる。

これが生まれて初めて外国人とのエンカウント(遭遇)だった。

いわば、"Final Encounter With Third Kind"だった。
(邦名:映画「未知との遭遇」)

つまり、僕が生まれて初めて出会った外国籍の人は

米国人でしかも子供、

決してフレンドリーな出会いではなかったようだ。

もちろん、のちに一緒に遊んだ記憶もある。

でもその内容は....

戦争ごっこ。

日米戦争ごっこだ。

かなり本気でやっていたことを覚えている。

でも...

その当時、僕らは何故一緒に遊べる環境にあったのか知らなかった。

言葉が通じないのに一緒に遊べる。

子供はすごい。

当時はアメリカ人が外国文化に触れる背景には必ず

戦争があった。

この頃、敗戦国の子供というアイデンティティーを僕は知らなかった。

ただ単に肌の色、言葉、問わず、そこに子供が集まればどうにか遊ぶ。

それがごく自然なことだった。

それから基地が変換される1953年(昭和53年)迄

僕はよく坂の向こうへ出かけて行った。

基地が日本政府に返還された時、

僕は10歳になっていた。

終戦を迎えた年、1945年(昭和20年)

私の父は10歳の少年だった。

その間33年、ここにはアメリカがあった。

そして、戦後70年たった今もなお日本には米軍基地がある。

もうすっかり、かつて熾烈な戦争をしていたなんてことは歴史上のこととして

近現代史の1ページになってしまった。



















2015年5月15日金曜日

大切なのは ”思い” です。


地元で若手経営者向けに”生きた英語”を体験習得していただく活動を始めて

2年が経過し、3年目を迎えます。

ロールプレーイングを取り入れた実践的な会話中心の楽しいイングリッシュ体験、


活動内容は、FACEBOOK 等でご紹介させていただいております


言葉は相手を理解し、自身の”思い”を伝えるための手段、

大切なのことは”思い”です。 



”モーチベーションとは始めるきっかけ、

ハビットは継続する力”



2015年5月13日水曜日

視座

私は常に視座を意識しています。

私は良しにつけ悪しきにつけ、

思い込みが強い傾向があり、

それを緩和するためにも

余計に意識しています。

視座を決めれば、

視界が開け、

同じ視点であっても、

違う角度から見つめ直すことが出来ます。

これはあくまでも私個人的ですが、

社長業&通訳翻訳業、

または父親として

何れも、

何処に視座を決めるかで

見えるものが変わってきます。

視座の位置を間違えれば、

視野が狭くなったり、広過ぎて

論点がぼやけてしまい、

社長業では判断を誤り、

通訳翻訳業では誤訳や語彙選択

を誤るリスクが発生します。

そして、おそらく親として子供の

気持ちに気が付かず…

親子で心の通い合う関係が築けなくなってしまう……(´・_・`)

そんなリスクが生じてしまうと思うのです。

だから、常に視座を意識しています。

ただし、間違えに気付いた時点で、

視座を変えてみる。

もしかしたら、みている世界(マップ)そのものが違うかもしれなんです。

でも、視野が狭いとそのことにすら気がつくことができない…(´・_・`)

そんな失敗を何度も重ねながら、

視座を自由自在に何処にでも

おけるようになりたいものです。(^_-)

【参考文献】









2015年5月2日土曜日

プロ意識

【プロ意識】

人生においても仕事においても失敗経験から学び成長するものだけど、

通訳は失敗すると二度とそのクライアントさんからは仕事はもらえません。

当然です。。。プロですから。

ボランティアであれば多少の失敗や誤訳が多めにみてもらえるけど、

ことビジネス環境上の通訳での誤訳はクライアンさんに多額の経済的損失を

負わせてしまうリスクがあります。

だから、お仕事をお受けする際には十分な事前準備期間と専門知識注入が求められます。

その責任からくる緊張感がまたたまらなく良いんです。

常に緊張感をもって仕事と向いあう姿勢、大切にします。


2015年5月1日金曜日

グローバルビジネスはもはや日常

通訳・翻訳も

受けた案件ひとつひとつがわか

経験となり知識の獲得につながり…

やがて見識となって残る…楽しい(^_-)